エクアドルから親戚たちの住むサンパウロへは、ペルーのリマ国際空港とブラジリアを経由してたどり着いた。同じ南米大陸にあれど、乗り換えを含めると11時間の旅。南米大陸の広さを感じる。
印象的だったのは、エクアドルからペルーを経由してブラジルに近づくにつれ乗客の身なりが洗練され、マナーが良くなっていくことだった。
アメリカ・エクアドル間でよく見かけるイヤホンなしで音楽を聴いたり、ビデオを見たりするような客はいなくて、飛行機を降りる時も自分の列の番が来るまで座っておとなしく待ち、通路に立ってそわそわしているような人は見かけなかった。
無事、サンパウロ・グアルーリョス空港に着き、到着ゲートを抜けると赤ちゃんから大人まで大勢が私を待っていた。
伯母さんの面影を漂わせる、初めて会う親戚たち。私の伯母さんが苦労しながら大切に守ってきたたブラジルで築いた家族。なんか皆少し私と似ている。彼らを見るなり急激にジーンとこみ上げるものがあり、涙がこぼれてしまった。
親戚たちは「よく来たね」「遠かったね。疲れたね」と声を掛けてくれた。従兄妹たちそれぞれが家庭を持ち、子や孫もできて大家族になっていた。
親戚たちとの会話は日本語と英語とスペイン語をそれぞれ少しづつ。日本で働いた経験のある親戚は簡単な日常会話程度は話せるが、そうでない親戚は日本語を話せない。
そんな時は簡単な英語とスペイン語で乗り切った。スペイン語とポルトガル語は案外共通点が多く、私の初級スペイン語でも大変役に立った。
私の母が伯母とブラジルの親戚の話をするのと同じく、母も私の事をよく伯母に話していて私のことを聞いていたのだろう。彼らはすぐに「みきちゃん、みきちゃん」と、私の沖縄の家族や親しい友達がそうするように私を呼んだ。
私の親戚たちの多くはサンパウロ市郊外のサントスという、かつて多くの日本人移民が降りたった港町またはその近郊に住んでいた。
空港からの車中から見る空は澄み、裾の広い深い緑の山々が美しかった。砂浜の広いビーチの沿岸も雄大でブラジルという国の大きさと迫力を感じさせた。
季節柄、海の水は冷たかったけれど、サーフィンを楽しむ人やビーチバレーボールをしたり、チェアーに座ってゆっくりと海を眺めている人などがいて、のんびりとしていた。
ここ数年、私たち夫婦はバケーションでハワイに行くのが定番になりつつあったのだが、今回は同行できなかった夫と、次回はハワイの代りにここを訪れたいと思うほどだった。
サンパウロに到着した翌日、念願だった伯母夫婦の墓参りに行った。日本人たちの墓は墓地の一角に集まっているという。
お墓の作りはグアヤキルでもよく見かける南米特有のものだったけれど、外壁は日本の墓のように御影石が施され、似たような形の墓がいくつもその一角に連なっていた。
生前に親戚や仲の良い友達同士で近くに墓を買ったのだそうだ。同行した親戚は「自分のファミリーの墓だけでなく両隣とその向こうまで誰が眠っているのか知っている」と話していた。日本人同士の強いつながりを感じる話だと思った。
伯母夫婦と長男の写真入りの名札がはめられた墓に手を合わせながら、ブラジルで素晴らしい家族を築いた伯母夫婦を誇りに思うことを伝えた。
人生のある時期は非常に苦労したかもしれないが、ブラジルで家族を立派に育て、皆が仲良く元気に暮らしている。
「苦労は多かったかもしれないけれど、晩年はとても満たされていたのではないか?もしかしたら、沖縄の親戚たちが思っていた以上に彼らは幸せな人生を送っていたのかもしれない。」と思うと、またうれし涙が溢れてきた。
とにかくブラジルにいる間は琴線に触れることが多くて泣いてばかりいた。