戯れに”wanderlust”という英単語にふさわしい日本語の訳を考えていて、ふと、私のこころに迫ったのは松尾芭蕉のあの有名な序文でした。
去ってはまたやってくる年月もまた旅人と捉え、旅を生業とし、そのうちに一生を全うする人々の生きる姿に、漂泊の思いがやまなくなる…。芭蕉のその旅への渇望を、思い起こしたのです。
そんな「旅に出たい」という思いを、私達は今、全世界で共有しているのかもしれません。
移動の自由の制限は続き、容易に国境をまたいで旅をしていたのが、ずいぶんの昔のことのように思えます。
でも、自分の軌跡を振り返ってみると、実は「遠くの旅」に出ることは稀でした。
旅が好きが高じて、国をまたいだ引っ越しが好き、知らないところで暮らしてみるのが好き、そんな生活をかれこれ人生の半分ばかり続けていますが、これまでに暮らしたことのある場所は11あまり、旅したことのある土地は40と少しと、なんだか旅で多くの土地を訪れるよりも、生活の移動に重点を置いているのです。
旅のスタイルは人それぞれですが、私は特に近場の国内旅行が好き。
住んでいないと見つけられない小さな名所旧跡をつぶさに観光したり、のんびりとした田舎の風景を楽しむために小さな村を訪ねたり…。そんな旅を、ここアゼルバイジャンでも続けています。
グバ郊外の沿道の茶店
海外旅行というと、NYのブロードウェイでミュージカルを観るとか、パリのオルセー美術館を訪れるとか、有名な都市の人気の観光地をめぐるのが人気かもしれません。
ですが、今自分の住んでいる国に注目してみると、情報が集めやすいという利点があるので、主要な観光地以外にも、素敵な旅先が見えてきます。
ここアゼルバイジャンでも、世界遺産に登録されているすばらしい名所旧跡や観光地はたくさんありますが、今私が注目しているのは、コーカサス山脈の山間の小さな村々。近年の道路整備で、自家用車でもアクセスが可能になりました。
コーカサス山脈は険峻な山々が連なり、そこに点在する村々は、あたかも絶海の孤島のようなその立地により、独特の文化を育んできました。
そんな村々の一つ、キナリグ村を訪ねた思い出を。
バクーからカスピ海の海岸線沿いを抜けて、車で2時間走ると林檎の生産と絨毯織りで有名な古都グバに到着し、そこからさらに山間に入ります。
下界は濃霧。小さなコテージが点在する郊外の保養地の茶店で小休憩をし、お茶を飲み、遠くに目をやると、牧草地では羊や馬が草を食む姿が見られます。
さらに山を登り、曲がりくねった細い道をさらに進むと、突然、雲の上に出ました。「ここからはイーグルの土地」ガイドを担当してくれた男性が、そう説明してくれました。
キナリグ村入り口「イーグルピーク」
ごつごつとした岩肌になめらかな草地が広がる風景の、その頭上、晴れわたった空に悠々と鷲が飛んでゆきます。
村に入ると、村長のご家族が迎えてくれました。ここで村の歴史や、生活様式などのお話を伺い、村で全て自給自足している食材を使った昼食をいただきます。
「道路が整備される前は、静かな村の暮らしだった。観光客が訪れる今は生活も変わったけれど、飼っている羊の毛で編んだ靴下などを観光客が高く買ってくれるのはうれしい」
村のおばあさんが羊毛の糸紡ぎの手を休めずにそんな話をしてくれました。
食後は村の小さな博物館へ。引き続き村長と、村の有志の男性たちが案内してくれます。
絶海の孤島のようであったこの村では、アゼルバイジャン語と全く違う独自の言語、キナリグ語が残っていること、村の伝統の衣装や、昔の婚礼写真などの展示にを眺めていると、初老の男性が丁寧に解説してくださいました。
この村には、ホテルはなく一般の家庭がホームステイとして観光客を受け入れています。
「夜は満天の星なのよ」道で出会ったお姉さんの言葉に、今度は宿泊を兼ねて再訪しようと思いました。
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