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「私たちは、違う」が前提の人間関係やコミュニケーション

2021年1月18日
佐古祐子 (アメリカ)

「私たちは日本人だから、同じだよね」が前提になると

2020年はパンデミックにより世界がガラっと変わった年でしたが、私たちは「風の時代」に入ったそうです。

今後は自由や流動性、ひとりひとりの喜びや幸せ、そして個性を大事にしていく風潮が強くなっていくと言われています。

今回は「私たちは、違う」を前提にする人間関係やコミュニケーションについて考えていきたいと思います。

「アメリカにいる日本人にはいくつかタイプがある」という話を以前書きましたが、同じ「アメリカにいる日本人」でも、考え方や生活スタイルにかなり違いがあるのではないでしょうか。

メディアやインターネット、そしてリアルな生活の中でも「アメリカ(人)と日本(人)」や「海外と日本」という具合に、かなり大きな概念で「”こちら”VS”あちら”」と二極化する文脈で物事を考えたり、話をしたりする機会は多くあります。

しかし、例えば「留学してアメリカ人と結婚した日本人女性」というくくりの中でも、ひとりひとりの「留学体験」はそれぞれで、お相手の「アメリカ人」も色々で、当然ながら同じ体験をしている人などいないのですよね。

「同じ日本人だから、仲良くしよう、仲間よね、一緒よね、わかりあえるよね」という理由で関係が始まると、「同じ日本人なのに、どうしてこんなに違うの」という意識が生まれてしまい、どこかで無理が出てきたり、苦しくなってきたり、違和感を感じたりすることも少なくないように思います。

 

とある公園のプレイグループで

私には未就学児の息子がおり、多様な人種・民族的バックグラウンドの人々から成るプレイグループに入っています。

このグループはとある公園でよく会う人々のグループで、元々知らない同士がそこにいつもいるから一緒に遊ぶようになった子育て仲間たちです。

平日の午前中大体10時ごろから集まりだして、共に遊び、正午には「ランチタイムだ。また明日ね~」と方々に散っていきます。参加はもちろん強制ではなく、公園に行けば誰かがいる感じです。

グループチャットもありますが、平日の朝に「今日、行く?」「行く」「今日は行かない」「オッケー、また後でね」というような連絡だけで、プライベートなやり取りはありません。

お互い生活スタイルや文化がまったく違うので、深い話はせずに子どもの話やたわいもない世間話に徹します。あえて、深い話はしません。

深い話になってしまうと、宗教や民族や人種、社会経済的地位の差や文化、政治観の違いに触れてしまうかもしれないから。

共通点は小さな子どもがいて、同じ公園へ同じ時間に連れてくることだけ。

パンデミックの影響で、子どもを連れ出せる場所が減り、在宅勤務をしながら自宅で子どもの世話をする人が増えました。

動物園も博物館もクローズしている、カフェ・レストランで過ごすことができない、図書館も開いていない、室内遊び場も開いていないという状況に、同じ公園に同じ時間にやってくる人たちが自然と集まりやすかったように感じています。

プレイグループの中にはお父さんやベビーシッターさんもいます。「ママ友」という言葉すら必要なく「ケアギバーの大人と子どもたちの集まり」という感じ。

 

「違う」が前提のコミュニケーション

大人たちが「平日の午前中の数時間を共に過ごすケアギバー同士」に徹する距離感がすごく心地良いのです。

お互いが連れている子どもたちを皆で一緒に見守り、共に遊び、おやつやおもちゃを分け合い、正午になったらひとり、またひとりと「また明日ね」とバイバイし始める。

このように「私たちは、違う。でも一緒にいるこの時間は共に楽しもう」という自由度が高く、押し付けあうことなく、親しみは充分にありながらも程よい距離がある関係性の風通しの良さを感じて改めて思うのは、

「分かり合うことを期待すること」は「自分と同じであることを求めること」であり、それは自分自身を追い詰める息苦しさになるなぁということです。

親子も夫婦も友人同士も同僚も仕事相手も、「私たちは、違う」を前提に関わり合うと、衝突したり、悲しい想いをすることが少なくなるのではないでしょうか。

これからの「風の時代」に、皆さんが自分らしく生きながら、相手の相手らしさを尊重し、お互いにのびのびと暮らすことができたなら、こんなに素敵なことはないなぁと思います。

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Written by 佐古祐子(アメリカ)

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